娘の手紙 |
藤沢湘南台病院放射線科 小橋由紋子
自己紹介
聖マリアンナ医科大学卒業後、同大学院入学。在学中に結婚・出産、専門医取得。大学院卒業後放射線医学教室助手、MGH, クリーブランドクリニックへ単身留学ののち藤沢湘南台病院勤務現在に至る。
一週間のスケジュール
月〜木:4時半起床、5時45分までは仕事もしくは勉強もしくは運動。その後身支度や食事の支度。6時半に娘を起こす。7時20分には娘の食事を済ませ、歯磨きなど完了させる。主人に娘を幼稚園まで送らせ、自分は藤沢市長後の職場へ約一時間かけて出勤。8時半くらいには到着して業務開始。火・水・木は午前または午後聖マリアンナ医大から後輩が外勤に来るので、教えながら一緒に仕事を行う。一ヶ月に数回の土日と月・金は病院の救急当番があるので、前日の読影を完了させて帰宅したとしても、翌日病院到着時には未読影分がたまっていることが多い(一番多くて30件ほど)。
金:外勤日。朝はいつもと一緒。8時に午前中の外勤先(横浜)に到着して読影開始。終わり次第、午後の外勤先(横須賀)へ向かい読影。検査(PTCD,Angioなど)があれば、午後と午前の外勤を交換して行っている(子供の幼稚園の迎えに遅れるため)。特別な検査がなくて、読影が早く終われば4時半くらいには娘を迎えに行くことができる。
土:娘は主人に任せ、7時には自宅を出て、8時ごろより業務開始。土曜には個人的にバイトをお願いしている後輩と読影。2時ごろ終了。3時半よりビジネススクールでBasic Accountingの授業があり、虎ノ門まで出かけている。7時ごろには帰宅。
日:7時半には起床して犬の散歩。後は家の仕事や子供と買い物など。
JCRから原稿依頼のお話を頂いたときに私は正直言って自分の個人の生活を書くべきかどうか悩んだ。働く女医が元気になるようにお願いします、とのことであったが、人それぞれの環境があるので、自分のことを述べてもあまり参考になる気がしない。特に子供がいて(亭主がいる、いないは関係なく)、同時に仕事をしている場合はなおさらである。あえて書くのであれば、自分が子供を出産してから今までどのような生活だったか単に報告するのみである。
私が娘を出産したのは医者になって6年目の7月であり、専門医試験の一ヶ月ほど前であ
った。3時間おきに母乳を与えながら、試験勉強をし、太ったままで専門医試験を受験した。口頭試問のときはスーツが体に入らずジーンズで臨んだ。大学院の学位論文もとおり、専門医にもなり、私の放射線科人生はこれから、というときに、子育てが分厚く高い壁のように存在していた。仕事をとるか、子育てをとるか、両立させるか・・・育児休暇中、常に悩んでいた。山梨の実家から神奈川の職場や自宅を頻繁に行ったりきたりしている私を見かねて、両親が孫を育てようか、と申し出てくれた。主人を説得し娘が三歳になるまで、と決め、娘との別居生活が始まった。子供がいない間は、仕事を何が何でも頑張る、そう決意して聖マリアンナ医大に職場復帰した。そんな矢先、当時の医局長に言われた言葉は痛かった。「先生も子供がいるんですよね。じゃあ、今のうちに出来ないことは出来ないとはっきり言ってください。あれも出来ます、これも出来ますって言っておきながら「やっぱり無理です」と言われると医局にも迷惑がかかるし、第一に君の評価が下がります。ああ、あと育児休暇中、いろいろ好きなことをしていたようなので外勤は半日なくしますから」。
2年大学病院で骨軟部を専門に勉強をさせてもらい、海外学会での発表や講演の機会を得ることが出来た。たまたま整形外科の学会の手伝いで知り合ったクリーブランドクリニックのSundaram教授とMGHのRosenthal教授の下で留学することもできた。留学は私にとって非常にもめたイベントであり、娘をつれていくか、一人で行くか、また悩む羽目に。結局、英語が得意でないゆえに外国で子供の面倒は見れないと判断し、単身でアメリカ留学した。
留学から戻ってきて、3年半ぶりに娘と同居生活が始まった。娘の母親は私の母であり、私は娘にとって居心地のよい住まいから横浜の自宅へ無理やりさらっていったワルモノみたいな存在であった。娘は何かにつけ「山梨ではこうだった」「山梨のおばあちゃんは・・・」と言い、山梨の実家へ電話しては涙ぐんでいた。彼女の孤独な気持ちを少しでも紛らわせることが出来ればと思い、娘に手紙の書き方を教えた。「大切に思っている人のことを考えながら、手紙を書こうね」と。それから娘は毎日手紙を書き続けた。一日何通も何通も書き、切手を貼って山梨へ送り続けた。手紙の内容は「おばあちゃん元気? 私も元気」とたわいもないものではあったが、書きながら泣いている娘を忘れることが出来ない。私が出来ることは彼女に便箋と封筒を買うことくらいであった。
彼女が少しずつ変わり始めたのは夏のあたりだろうか。横浜での生活になれ、私との付き合いになれ、新しい幼稚園になれ、友達も出来た。彼女の書く手紙も山梨のおばあちゃんから幼稚園の友達にかわり、そして私になった。少しずつ、親子になってきたように思う。
私が子供との別居生活を決めたことは過ぎ去ったことであり、後悔してもしなくても同じである。今は子供と楽しく生活しているし、仕事も順調である。親子であれば、時間がかかっても、一緒に過ごさなかった時間を取り戻せることは出来ると思う。
子供はあと数年も経てば自分の足で自分の人生を歩んでいくだろう。子供が手を離れたときに、自分に仕事なり趣味なり自信をもてるものが何もなかったらどうなるか、この疑問の答えが見つからなくて、育児より仕事を優先したのが自分の本音である。
子供が私の手で育てていないことが不幸なことかどうか、それは分からない。しかしながら、子供は祖父母の手で大切に育てられ、心根のいい子である。これが悪いことのようには思えない。
いずれにしても、女医が結婚して子供を作れば、必ずぶつかる問題だと思う。育児優先、仕事優先、両立する、それらの選択は各人の自由である。ただ、もしも育児・仕事両立を望むならば、かつての医局長の言うように、自分の出来ることと出来ないことは明確にする必要がある。出来ないことを主張することは甘えではなく、仕事に対する自分の限界の見極めをしているだけである。各人の出来る範囲内で仕事をしっかりやれば、必ず理解してもらえると思う。「子供がいるから仕方がないと」居直ることなく遅刻しない努力も必要だし、途中で帰るようなことも控えることは大切である。本当の意味での周囲(職場の人々)への配慮は1人の医師として気持ちを切り替え、一生懸命働くことではないだろうか。
